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大峰山山上ヶ岳の山頂の修験道の寺院。吉野金峯山寺(金峯山修験宗)蔵王堂を山下(さんげ)の蔵王堂に対して山上の蔵王堂とも呼ばれている。
山号:一乗菩提峰
本尊:金剛蔵王大権現
創建:白鳳時代
開基:役行者

大峯山寺本堂は、伝承によれば、7世紀末に修験道の祖である役小角が、金峯山で感得した蔵王権現を刻んで本尊とし、蔵王堂を建てたとされる。
その後、天平年間に行基が大改築を行い、参詣困難な山頂の蔵王堂に代わって山下にも蔵王堂(吉野・金峯山寺)を建てたとする伝承もある。
平安時代初期には一時衰退した時期もあったが、9世紀末に真言宗の僧・聖宝(理源大師)によって再興され、10世紀以降、皇族・貴族の参詣が相次いだ。
戦国時代には一向宗と争って山上の本堂などを焼失するが、江戸時代になって再建された。

昭和58~59年に吉野山から二十数キロも南の大峯山(海抜1719メートル、古くは金峰山)の重要文化財大峯山寺本堂の半解体修理が実現された。その修理工事に合わせて、本堂内陣と外陣の地下発掘調査を実施した。その結果、大峯山頂に奈良時代の天平末から天平勝宝(749~757)頃には、確実に宗教施設が形成されていたことを確認できた。西暦900年頃には、現在の大峯山寺本堂の外陣の中央に方形に石を組んだ護摩壇が造作されていました。

大峯山寺は、護持院が交替で維持管理に当たっている。
護持院は桜本坊(金峯山修験本宗)、竹林院(単立)、東南院(金峯山修験本宗)、喜蔵院(本山修験宗)、龍泉寺(真言宗醍醐派)の5か寺である。
うち龍泉寺は山上ヶ岳の麓の天川村洞川(どろがわ)に本寺があり、他の4か寺の本寺は吉野山にある。
大峯山寺本堂の手前5分ほどのところにはこれら5か寺の宿坊が固まって立地している。(営業期間は、5月3日~9月21日まで)。宿坊であるので、宿泊施設1階の食堂に面して本尊が祀られており、喜蔵院には蔵王権現が、他の4宿坊には神変大菩薩が安置されている。すべての宿坊は信者だけではなく一般登山者も山小屋代わりに宿泊でき、山頂に近い立地にもかかわらず風呂があるがサービス施設でなく精進潔斎のための施設とされている。食事は精進料理であるが、量は多くなく質素な内容である。
女人禁制の区域にあるため宿泊者は男性に限られる。そのため浴室の更衣室が通路や玄関から丸見えの宿坊があるなど、女性がいないことを前提とした造りが見られる。
 【伝説】
大峰山寺は、今から1350年程前の白鳳時代に、修験道の開祖とされる役行者によって開かれたと伝説する寺院で、標高1719メートルにある、大峰山系の山上ヶ岳にあります。
伝説では、役行者は葛城山にて修行した後、この大峰に入って修行に励んだといいます。そして、山上ヶ岳にて一千日間の修行の末、金剛蔵王権現を感得するに到ります。蔵王権現は、はじめ一つの大岩の上に現れ、そこからいま「龍穴と言われる穴の中に降り立ったとされています。役行者は、感得した蔵王権現の姿を、桜の木に刻みつけ、二体の尊像を造立。この時、蔵王権現が降り立ったとされる穴の上に寺院を建立し、龍穴を内々陣として、蔵王権現像を祀ったといいます。この時建立された寺院が大峯山寺です。役行者が刻んだもう一つの尊像は、金峯山寺に祀られたと伝えられています。

役行者は、この大峰山にて二十五年間修行したと伝説されています。この時、吉野山から熊野三山にかけ、いま七十五靡(なびき)と呼ばれる修行場を開いたとされます。大峰山寺のある山上ヶ岳には、「西の除き」や「平等岩」、「鐘掛け岩」と呼ばれる行場があります。大峰山は、古来修験者の聖地として、修行の場として全国的に信仰された地ですが、とくに近世からは、主に畿内の一般の人々、町人達が「講」といわれる組織をつくり、さかんに参詣するようになっています。そして、今も「講」は健在で、大峰山が開山している5月3日から9月23日までにかけ、多くの人々が山伏装束などを着用し、「懺悔(さんげ)、懺悔(さんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」あるいは「慚愧(ざんぎ)、懺悔(さんげ)、六根清浄」と声出しながら、大峰の山々を駆けています。ただし、古来そうであったように、いまも大峰山は「女人禁制」で、女性は入ることが出来ません。