文武天皇(もんむてんのう) | |||||
天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。 草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父・草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。 父・草壁が持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子。文武天皇元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。 このような若さで即位した理由を説明するために皇太子になった経緯をたどると、「懐風藻」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。その際に葛野王が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をしたとされ、ここで弓削皇子が何か発言をしようとしたが、葛野王が叱り付けたため、そのまま口をつぐんでしまったとされる。 持統天皇は、この一言が国を決めたと大変喜んだとされる。これには、持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかったことがあるとされる。このような論争が起こったことには、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てたにもかかわらず、即位目前の689年に没してしまったために、持統天皇は草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承させようとした。そのために、成長を待つ間は自ら皇位についた。 ただ、天武天皇には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子がほかにいた。彼らは、草壁皇子の死後皇位につくことを期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。このことから考えると、天武天皇の皇子である弓削皇子は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・孫へと行われるべきという考え方があるためとされる。 大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。 公式記録の『続日本紀』には妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘・藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる(ただし、宮子を当初から夫人であったとするのは『続日本紀』編者の脚色で、当初は石川・紀と同じく嬪であり、慶雲4年以降に夫人に昇格したとする説もある)。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。 このことについて梅原猛はその著書『黄泉の王』で、文武の妃は紀皇女だったが、弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を『万葉集』の歌を根拠に展開している。紀皇女についてはその記録すらがほとんど残っておらず、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から一切抹消されたというのがこの説の核心となっている。 |
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