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大峰山を開山し修験道の開祖と成った役小角は、634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)、母は賀茂役氏の娘 白専女(しらとうめ)である。小角は、幼少の頃から博学で、梵字を書いたり拝んだりしていた。まわりの子らとは遊ばず、泥や土で仏像を作り、草の茎でお堂や塔を建て、花や水をそなえて礼拝していたという。 17歳になると元興寺(現在の飛鳥寺)で学ぶ。やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。箕面(みのお)山の大滝で、龍樹菩薩から秘法を授けられ悟りを開いた。そして、孔雀明王の呪術を修得する。孔雀明王の呪文を唱えると、蛇の毒を含むあらゆる毒、病気、災厄や苦痛を取り除くことができるという。 三十余年ものあいだ洞窟にこもり、藤の皮を衣とし、松葉を食物とする難行修行を続けた小角は、鬼神を駆使できるようになり、五色の雲に乗り自由に空を飛ぶことができたといわれている。 小角の生きた時代は、律令政治により民に対する締め付けが厳しく、とくに農民に課される労働や税は多くの人々を苦しめていた。土地はすべて国のものとされ、農民は与えられた土地のなかで農作物を作る。役人により一段の田からとれる収穫量を一度定められると、旱魃や災害で稲が取れない年があろうと、洪水で田が流されようと、決められた税は必ず出さなければならなかった。どうにか税米を出せたとしても、農民が食べる分は殆どなくなってしまう。農民のなかには餓死する者、税が出せず娘を渡す者まで出てきていた。そのうえ農民は、土木工事などの労役にも借り出されるのである。田畑での働き手が減れば、その分を残された農民が倍働かなければならない。借り出される者も、指示された場所まで全て自費で行き、食べる物ですら自分で賄わなければならなかった。農民はただただ延々と働くだけで、何の希望も持つことができないでいた。 このような世の中を見ていた小角は、下層とされる民衆や農民たちに少しでも安楽のある暮らしをさせてあげたいと願うのである。村に下りることがあると、病人に薬草を煎じあたえ、念じることで救った。人々が集まると、生きる上で最も大切なことは心の持ち方であると説いた。いまがたとえ貧しく困難な生活であろうとも、これは次なるよき事を呼ぶ段階であると考え、決して折れてはならぬと、前向きな説教を続けた。村人たちは、小角の説教を聞くと不思議と明日への活力がわいてくるのである。そばに来て拝む者、貧しい暮らしをしているにも関わらず自らの食事を割ってまで米や芋を与えてくれる者など、小角を見かけるとそこには自然と人々が集まり、そして仏のように尊崇されるようになるのである。心の救いを求める村人達と接していると、小角はまだまだ吾の修行は足らないと感じてならない。そして、また山に戻り更に厳しい修行を積むのである。 小角は、この乱れた世のなかで衆生を済度するには厳しい形相をした本尊を感得したいと、金峯山の山上で千日間念じ続けた。ある日、目の前に釈迦のお姿があらわれた。しかし小角は「この御像では、民衆を感化することは困難であるに違いない。」と言う。さらに念じ続けると弥勒菩薩があらわれた。小角は「なお、この御像でも民衆を感化することはとても叶いますまい。」と言う。すると突然、天地が大振動し稲妻とともに、右手右足を上げ憤怒の形相をした蔵王権現が地からあらわれたのである。この憤怒の形相こそ、小角が求めていた本尊のお姿だった。小角は喜び「これこそ、わが国の民衆を感化することができる。」と深い祈りを捧げ、感得した蔵王権現のお姿を桜の木に刻み、お堂を建てお祀りしたのである。(以来、桜の木は御神木とされ手厚く守られ、山岳信仰のある霊山では伐採を禁じるようになる。) 蔵王権現を本尊として感得した小角は、山を下り衆生を救うための活動を始める。ある時、箕面山に村人の子をさらっては食う夫婦の二鬼がいることを耳にする。村人たちの話では、もう何人もの子どもがさらわれ、二鬼の仕業と分かっているがどうすることもできないのだと言う。夫は赤眼、婦は黄口といい、五つの鬼の子どもを生んでいた。そこで小角は、鬼の住みかに行き、二鬼が深く愛していた鬼彦という名の鬼の子を呪で岩屋に隠してしまった。二鬼はたちまち驚いて、必死になって鬼彦を探した。しかし、いくら探しても居場所は分からなく、小角のところに来て礼拝して言った。「どうか小角尊者のご慈悲によって、わが子の居所を教えて下さい。」小角は「それでは二度と村人の子を殺すな。必ず約束は守れ。」と厳しく命じた。二鬼は頭を地にこすりつけ、小角の言葉を心から聞き入れた。すると、空から不動明王があらわれ「我は悪魔を降伏させる。もし我の言葉にそむくと必ず害する。」と告げ、鬼彦を二鬼に渡した。二鬼は泣きながら「我らを済度して下さい。害心を反省し、師としてお仕えしたい。」と願った。小角は二鬼の名を改め、夫を前鬼、婦を後鬼とした。この夫婦の鬼は、小角に従い山の開拓のために尽くしたといわれる。(役行者像は、この二鬼を伴う像が一般的である。) 小角は庶民の生活を助けるため、山に道を開いたり、川に橋をかけたり、堤防を築いたりした。それまで、国のためだけに土木作業をしてきた庶民たちにとって、自分達の生活を考えはたらきかけをしてくれる小角はどれほど有難い存在であっただろうか。人々は小角を慕い、皆で協力し合い一生懸命に土木作業をおこなった。 葛城修行と大峯修行の両山を開いた小角は、ある時、諸国の鬼神を集めると「金峯山と葛城山との間にに橋を架け渡し、通行できるようにせよ」と命じた。鬼神たちはさっそく石を運び橋をつくり始めたが、葛城の一言主の大神は「わが顔形は醜いから、橋は夜の間につくりまする。」と言った。小角は「昼でも遅いのに、まして夜だけとは許さん。速やかにつくって渡れるようにせよ。」と命じたのである。しかし一言主神はいうことを聞かなかったため、小角は怒り、一言主神を縛りあげると深い谷底に放置した。一言主神は小角の呪力には勝てないので、宮人にのり移り「小角は天皇の位を傾けようとしている」と朝廷に密告したのである。それを聞いた役人たちは小角を捕らえようとしたが、空に飛びあがって消えてしまったり、山に入るとその足のあまりの速さにどうしても捕らえることができなかった。それゆえに、小角の母を人質として捕らえ獄舎に入れてしまったのである。それを知った小角は、母を救うため、自ら役人の前に出ていき捕らえられるという道を選んだのである。 金峯山と葛城山の橋掛けは、小角が弟子達に命じた修行ではないかともいわれている。ここでは一言主神とされているが、これはときの役人を示していると考えられる。小角は多くの庶民から尊崇される存在であった。権力者たちににとってはそれがねたましく、また小角の優れた能力や、山岳修行で得たといわれる薬草の知識を何とか盗み取ろうとする者があらわれるのである。それを自分の出世のために役立てようと企み、弟子入りする者も少なくない。小角にとってそのような心はみなお見通しである。不可能ともいえる厳しい修行を命じることで、弟子達の本性はすぐにわかる。金峯山と葛城山の橋掛けなど一生かかっても無理である。こんなことをしていたら、出世をする前に人生など終わってしまうではないか。安易な考えで弟子入りした者は、楽をしようと言い訳をし修行をさぼったり、教えて欲しい知識をなかなか教えてくれないと逆恨みをするようになるのである。そんな小角を、権力を使い滅ぼそうと企んだのではないだろうか。 文武天皇3年(699年)5月、小角と母は伊豆の大島に配流された。小角は昼間は島にいて命令に従い、母親に孝行をしていたが、夜になると富士山に登り修行をした。さらに、霊地を見つけると海の上を踏み渡り、大空を飛んでその地に向かったといわれている。そして、夜が明けるとともに島に戻っているのである。小角は配流先の地でも人々から篤い尊敬を得るようになり、その評判はまたたく間に広まったことはいうまでもない。これほどの能力を持つ小角なら、大島から逃げ出ることも簡単であったかもしれない。しかし、小角は自分の置かれた状況から決して逃げるようなことはしない。修行を欠かすことはなく、そして常に、母への孝行、弱者に対する優しさを忘れることのない人物である。 大島に配流されてから3年が経とうとしていた。小角の評判の良さを耳にした一言主神は、それをねたみふたたび「小角をすみやかに死罪にせよ。」と告げるのである。派遣された勅使は、大島に到着すると小角を浜辺に引き出した。刀を抜き小角に向ける。その刃を振り上げようとしたときである、小角は刀を左右の肩・面・背に三度触れさせ、最後に舌で刀をねぶり「さあ、早くわれを斬れ。」と言った。小角の妙な行いを不思議に思った勅使が、その刀を今一度よく見てみると、何やら文字が浮かび上がっている。紙に写しとると、それは富士明神の表文であった。勅使は大変に恐れおどろいて、早速天皇に上奏し、その裁下を待つことにした。天皇は博士を召し出して表文を説明させると、博士は「天皇も謹んで敬い給うべし。小角は凡夫ではなく、まことに尊い大賢聖である。早く死刑を免じて都にお迎えし、敬い住まわせ給うべきお方である。」と言った。天皇は早急に使者を島に送り、小角の死刑を免じた。 故郷に戻った小角は、母を鉢に載せ五色の雲に乗って天に昇ったと伝えられており、大宝元年(701年)6月7日が、役小角と母の白専女が冥界に旅立った日とされている。また、一言主神は小角によって呪縛され、今でもそれは解かれないままであるという。 平安時代中期以降、役小角の伝説は『今昔物語集』『三宝絵詞』『本朝神仙伝』などによって伝えられている。鎌倉時代になると『古今著聞集』『私聚百因縁集』『元亨釈書』などで、役小角は‘役行者’と呼ばれるようになる。室町時代になると『役行者俵末秘蔵記』『役君形生記』『役行者講私記』『役行者本記』など修験道の教典とされる役行者の書物が作られていく。 我が国は、全国土の七割以上を山が占めており、古来より山には神仏や祖霊が宿ると信じられてきた。その聖なる領域に入山し、神仏習合の宗教観をもち修行をおこなうのが修験道であり、開祖と尊崇されるのが役小角(=役行者)である。 役小角を寺の開基とする寺院は全国各地に数多くあるが、その全てが実際に役小角によって開かれたものかどうかは定かではないといわれている。 役小角は博学であったが、自身では一冊の書物も遺していない。それには「仏祖の道というのは以心伝心であって、いやしくも空しい事はことごとくいうべきではない」と答えられたという(役公徴業録より)。役小角には確かにこの‘以心伝心’を受継ぐ多くの弟子たちがいたのである。 義覚、義玄、義真、芳元、寿元は五大弟子といわれている。役小角が伊豆大島に配流となったとき、この五大弟子を中心とした門弟たちは難が及ぶの避けるため、熊野権現の御神体・霊宝を船に奉じ、浄域を求めて3年にわたり各地を放浪したという。五大弟子は、役小角が赦免になった大宝元年(701年)に児島半島(岡山県南部)に上陸し、その地に熊野十二社権現の御神体を安置した。それぞれ、尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の5つの寺院を設け「五流修験」として中世には一大勢力を誇っている。五大弟子からまた更にその弟子達へと受け継がれた修験道は、さらに全国各地に広まりをみせるようになるのである。その後、明治の神仏分離令により、五流修験より十二社権現は熊野神社として分離し、寺院は天台宗寺門派に属した。(終戦後、昭和21年には、五流尊瀧院は自らを本山とする修験道として独立し、宗教儀式行事を壮厳に執行している) 修験道は中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点として修業かおこなわれ、熊野側では聖護院を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成された。しかし、明治5年、政府により修験道一宗としての活動が禁止されたことにより、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。 明治政府による神仏分離令・修験道廃止令により、一時は歴史の隅に追いやられてしまう修験道だが、現在は、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院(本山修験宗)、京都市伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。 |
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