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1300有余年以前に、役の行者が吉野から熊野にかけての大峰山系をご開山されたおり、この地に天女をご感得されたとの伝えがあり、また社殿は天武天皇が天武9年に創建されたとの事。またこの地は吉野・熊野・高野山の中心の位置にあたります。 天河は、清らかな天の水が流れる地とのいわれがあり、実際に現在も天然のマスが生息していることも清らかさの表れに成っています。 |
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〒638-0321 奈良県吉野郡天川村坪内107 大峯本宮 天河大辨財天社 社務所 電話: 0747-63-0558 / 63-0334 |
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飛鳥時代に、龍、水分(みくまり)の信仰に代表され、古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯が、役行者(えんのぎょうじゃ)により開山された際、最高峰弥山(みせん)の鎮守として祀られたのが天河大辨財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ)の始まりとされる。高野山の開山に先立ち、大峯で修行した弘法大師の最大の行場が、天河社であったともいわれる。辨財天は、川の流れの妙なる様を神格化した古代インドのサラスヴァティー神で、その本来の神徳は、水のせせらぎの如く素直で妙なる弁舌や音楽の神であり、日本の古代よりある水神の信仰とも結びついている。後に転じて「財を弁ずる」商売の神としても信仰されてきた。
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草創は1350年頃、飛鳥時代の昔に さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峰の開山が役行者によってなされた折大峰蔵王権現に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の創まりです。
その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立しました。 更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。 天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」や、「大師筆小法花経」、又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは弘法大師のことなのです。 天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠されました。そして峯中の大秘法「柱源神法(はしらのもとのかみののり)」にもとづく修法の数々が確立されたのです。 まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。これが門跡参籠修行の謂です。 文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書するものです。 また琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。 |
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