真言宗(しんごんしゅう)  ▲大峰山
空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。
空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。
同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。
天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので「東密」と称する。
又、大峰修験では過去さまざまな変遷を経て、真言流を当山流、天台流を本山流と称する。

観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立した。東寺長者が真言宗を統括することになった。金剛峯寺は、この本末争いに負けた。
高野山は落雷により伽藍・諸堂を焼失したり、また、国司による押妨などにより、衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。
その後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、高野山は財政においても安定した。

宗団は、師資相承を重視するために分派していった。 事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いによる分派であった。
教学(教義)そのものは、空海により大成されていたため、平安時代半ばまで、宗内での論争はあまりなかった。 しかし、11世紀末、覚鑁(興教大師)が高野山で秘密念仏思想を提唱したことにより対立が生じる。
また、覚鑁は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。
これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。
1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。

根来寺、大伝法堂(和歌山県岩出市)
根来山は大伝法院を含めて根来寺となり隆盛を極めたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉により、焼き討ちにされ灰燼に帰した。
そのため、1588年(天正16年)にこれを逃れた専誉が奈良県桜井市の長谷寺に入り、ここが後に真言宗豊山派の総本山となった。
また、徳川家康の保護を受け、1601年(慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院を京都・東山七条に再建した。のちに真言宗智山派の総本山となった。

南北朝時代に東寺の僧、杲宝・賢宝(げんぼう)らにより東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。
また、高野山では「応永の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院宥快が而二門(ににもん)の教学、無量壽院長覚が不二門の教学を振興させた。

江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じた。1604年(慶長14年)に、関東真言宗古義法度、東寺・醍醐寺・高野山学侶方にも法度が出された。また、1615年(元和元年)7月24日、徳川家康が真言宗諸法度を真言宗諸本山・諸寺に対して出した。こうして、幕府の監視下に置かれることになった。
同時に、幕府の宗教政策である寺壇制度が確立した。
宗門改などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。寺壇制度は、諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみが見られた。

江戸時代、幕府の支配体制に組み込まれることによって、諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部に綱紀のゆるみが起きた。 このことから、浄厳・慈雲らが戒律に関心をよせ、戒律の研鑽・研究を行い、戒律の復興を行った。


明治維新以降、明治政府は神仏分離を推進した。宮中では勅修法会が廃止され、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い、廃仏棄釈が起り、真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している神宮寺が廃されて、神社に改められることもあった。僧籍を離脱して、神社の神職になったり、還俗する僧も現れた。
政府の命令で、寺院の所有している土地の返納を要求して、政府へ強制的に返納させた。また、没収する場合もあった。特権も廃され、勅願所・門跡の称号を禁止された。これらの施策により、財政基盤を失うこととなった。結果、多くの寺院の経営が立ち行かなくなり、廃寺に追い込まれた。

霊雲寺、山門(東京都文京区)
政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗では金剛峯寺・東寺、新義真言宗は智積院・長谷寺が交替で、真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し、宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。

しかし、1878年(明治11年)、仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置くこととなった。
また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置くこととなった。古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して、独自の管長を置いた。
こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。
このことは、政府の知るところとなり、内務省から、一宗一管長制を採るよう通達があった。これを受け、霊雲寺において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、1879年(明治12年)に正式に合同が図られた。あわせて、東寺を総本山にして、長者の称号を復することになった。