吉祥草寺 | |||||||||||||||||||||||||
大峰山 修験道開祖 役行者御誕生所 | |||||||||||||||||||||||||
![]() (〒639-2241 奈良県御所市茅原 TEL 0745-62-3472) 修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)は、「役行者」の名で知られ、白鳳時代の七世紀後半を中心に、奈良県の葛城山や大峯山(金峯山)などで活躍しました。 『続日本紀』によると、小角は文武天皇三年(六九九)、韓国連広足(からくりのむらじひろたり)の讒言(ざんげん)により伊豆国に流されたと記されていますが、その後様々な伝説が加えられ、また全国各地の霊山を開創し、修行したと伝えられています。そして江戸後期には「神変大菩薩」の菩薩号を賜り、現在も修験者たちに篤く崇拝されています。 産湯の井戸 寺伝に役ノ行者御隆誕の時『一童子現れ、自ら香精童子と称し、大峯の瀑水を吸みて役ノ小角を潅浴す、その水、地に滴りて井戸となる』とあり、「茅原」の里を「新井の里」とも呼ばれ、この井戸を香精童子、『産湯の井戸』と称す。熊野権現社前の小詞。 白専女 役行者の母君で女山伏の祖といわれる像(白専女:シラトウメ)がお祀りされ、御真言には役君母公尊(エンクンボコウソン)。 吉祥草寺は、山号が茅原山、金剛寿院吉祥草寺と称する古刹です。 この地は修験道の開祖役行者神変大菩薩の出生地とされる。 境内の一角には産湯の井戸がのこされています。 西に聳える葛城山系は、若き日の小角の修行の場であり、 その主峰葛城山(現在の金剛山)は、小角が鬼神を使って 金峯山(大峯山)との間に石橋を架けさせようとした所です。 後に葛城山系の峰々には、法華経が一品(いちぼん)ずつ埋納され(葛城廿八宿)、 葛城修験の舞台となったのです。 その後当時は、役行者縁りの名刹として隆盛を見せ、 平安時代の前期には、理源大師聖宝が勅を奉じて当寺を再建しています。 ところが南北朝時代の貞和五年(一三四九)兵火によって悉く灰燼に帰してしまいました。 現在の堂宇はすべてこれ以降の再建になりますが、 広い境内地には古い伽藍が立ち並び、古刹としての風格を伝えています。 本堂は兵火後の応永年間(一三九四~一四二八)の再建と云え、 外陣の護摩札に寛文五年(一六六五)の墨書きが記され、 この頃改築されたことが判ります。 堂内には不動明王を中心とする五大尊が本尊として祀られ、 この他薬師如来立像や地蔵菩薩立像といった平安から鎌倉時代の作とされる木彫像を安置しています。 隣の開山堂には、等身を超える木造の役行者倚像・前後鬼坐像を祀り、 これは恐らく本堂が改築された江戸初期の作と考えられます。 この役行者像は顎髭がなく、若き日の役小角の姿を写した珍しい像で、 同じく堂内に祀る木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例です。 また観音堂には千手観音立像等を祀り、鎮守社には熊野権現を勧請しています。 これらの堂宇はいずれも近世後期の建立と考えられますが、 本堂と同様に痛みが激しいことは否めません。 この他当寺伝来の文化財としては、応永七年(一四〇〇)在銘の銅製鰐口や、 役行者が感得したと云える三宝荒神の画軸(室町時代)といった遺品が特筆されます。 |
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